みちのく自転車の旅 四日目: 伊達のお洒落と食い倒れ

今朝も、阿武隈川沿いをスタートする。川の西側は国道などもあり賑やかだが、東側は土地も小さく、静か。狭い土地にずっと水田が続いていく。早朝で人気もほとんどなく、土の匂いと蛙の鳴き声だけ。農村に暮らすというのは、こういう感じなのだな、と感じ入る。

岩沼の手前で最後の横断。白河で最初に越えた時は小さな川だったが、下流のここでは滔々と流れる大河の貫禄だ。白河からここに至るまで、ここ一帯の人が住めるような平地は全部この川が作ってくれた。ずっと一緒に走ってきた仲間と別れるような気になる。

この先は、仙台平野。山中から来たので、平野の広さと開放感が新鮮だ。見渡す限りの水田。そう、魚沼はお米で有名なところである。道路も水田に沿ってひたすら真っ直ぐ。それを走って行く。

朝御飯を食べに寄り道した時に、東北本線の踏切を渡る。里程標の表示がもう340km。なんだかんだと東北本線ともずっと旅してきている。思えば随分遠くにきたものだ。そして、それだけの距離を繋ぐ鉄道という存在の偉大さ。

仙台平野を作ったもう一人の主役、名取川を渡る。川向こうの正面には仙台の街並み。久々の大都会。眼下の水面。一面の鮮やかな緑と大きな青い空。突然に何かに心打たれ、息を呑んだ。そんな僕の隣の鉄橋を、すごい速さで新幹線が駆け抜けていく。朝日に映える鮮やかなエメラルドグリーンと、アクセントのピンクの帯。東北の色の美しさに実によくあった、素晴らしい配色だなと感動した。

七十七銀行を見て、昨日見た、角田の氏家丈吉翁や、福島の金子興左翁を思い出す。江戸時代には、伊達政宗が治水でこの地に住む人々みんなの暮らしを向上させた。自分だけよければではなく、みんなの暮らしを良くする公共事業。明治の時代にはそれは銀行だったのだろうと思う。産業の発展には地方銀行が必要だった。工場や機械や設備に投資するためのお金を集める機関が。

僕が関わってきたJenkinsを初めとするオープンソースは、さしずめ現代の公共事業だな、と思った。ソフトウェアの世界を支える、屋台骨のようなソフトウェア。そう思い、ちょっと誇らしい気持ちになった。

仙台という都に向かう、この「上る」感覚が僕を高揚させていたのかもしれない。あるいは、自分の知っている道に戻ってくるというのが嬉しかったのか。朝も人が出歩く時間になりはじめ、街が賑わっていく。杜の都らしい、大きな並木道。

仙台最初の目的地は瑞鳳殿。伊達のお洒落を存分に見せつけてくる、黒地に金の艶やかな装いの寺社である。雨で洗われた緑の美しさにとても映えていた。 しかし、僕の頭を一番ガツンとやったのは、瑞鳳殿そのものではなく、脇にあった小さな瑞鳳殿資料館で流れていたプロモビデオのカメラワークだった。瑞鳳殿の美しさを本当に見事に切り取っていて、それに比べると僕はとっている写真の、実に通り一遍なつまらなさ。スマホでアリバイ写真撮っているのと何も変わらないじゃないか。恥ずかしい気持ちになった。美しさをとりだす、そして視線を惹き付けるプロの仕事だった。

瑞鳳殿

瑞鳳殿の次は青葉城。東北大学の構内を、山をぐるっと回るように登って行く。小さく細長い無数の花びらが雨のように舞っていて幻想的だ。青葉城というだけあって、青葉もとても綺麗だ。そのタイミングで、雲が割れて青空がサッと広がった。輝く青葉のトンネルをくぐっていく。 仙台は、初夏の新緑を感じられる最高のところだった。

山を登り切って城址。ここは何度か来たことがあるので、勝手知ったる所。 伊達政宗の騎馬像に陽光が燦々と輝いてとても凛々しい。お城を建てるだけあり、ここは眺望が素晴らしい。高層ビルがない時代には、仙台湾まで見えたに違いない。その時の眺めを想像する。

仙台の郊外を走っていると、多賀城の街で東北歴史博物館の案内板に釣られ、寄り道をする。旅行の予習として東北の歴史を色々学んできたので、興味があるのである。 戊辰戦争の時の、奥羽越列藩同盟の大きな旗があった。歴史がちょっと違う方向へ転んでいたら、明治に東北は別な国になっていた可能性もあった。東北には「あとちょっとで別の国」という歴史が一杯あるのだ。

平安時代の初期もそう。ここ東北は当時、天皇と朝廷の支配の及ばない豪族達の群雄割拠の地であり、多賀城が京都政府の最前線の基地であった。 そして、そこを舞台に、東北の部族のリーダー、アテルイという男と、京都政府の征夷大将軍坂上田村麻呂が激戦を繰り広げるのである。シーザーのガリア戦記を思わせる物語。

アテルイ、奥州藤原氏 、伊達政宗、奥羽越列藩同盟。何と不器用なのだろう。いつも中央政府にやられてしまう辺境。統一による繁栄を享受しつつも、自己決定権の喪失のさみしさ。東北人達は昔から不器用だったのである。この旅では、僕は東北人贔屓だ。

併設のちびまる子展が賑わう中、僕は一人場違いにアテルイと坂上田村麻呂の戦いと、東北人の哀しい従属の物語に思いを馳せながら、この綺麗な建物を後にした。

松島へ向かう道は、ゴールデンウィークの観光客を乗せた車で大渋滞。こういう時は自転車の方が早いので鼻高々になる。一方、車のすぐ横を走るというのは安全面で緊張を要するので、なかなか風景に向ける余裕がない。ところどころで国道を外れ、松島に無数にある入り組んだ海岸をなぞる脇道を通っていく。普通の人はそういうところを通らないので、さっきまでの喧噪が嘘のような、人気のない静謐な光景が広がる。若葉だけが草に揺れている。眼下には松島の美しい景色が広がる。碧い海を静々と進む輝く白いフェリー。松尾芭蕉でなくとも息を呑む美しさだ。こういう回り道の喜びは、自転車ならではのものに思う。

フェリーが出入りする松島の中心地は人で芋洗い状態だったし、ここには何度か来ているので、こちらのお店に立ち寄っては笹かまを食べ、あちらのお店に立ちよっては生牡蠣を食べ、と、心残りないように食い倒れだけをしながら、先へ先へと向かっていく。

食い倒れ

奥松島で、下り坂の途中のホテルに日帰り入浴ののぼりを見つけて、慌てて急ブレーキ!人のいないお風呂に入りながら、窓の外の青空を見上げ、風にそよぐ紅葉を見ていた。穏やかな日常。突然の破滅。東日本大震災で唐突に断ち切られた多くの命のことが思い浮かび、命の儚さが強く胸を締め付け、泣き出したいような気持ちになった。

そんな僕を救ってくれたのは、窓の外の木に掛かっていた鳥の巣だった。何気ない、命を繋ぐ、小さな逞しさ。無慈悲な大自然の前の、しなやかな力。心が落ち着く。ホテルのロビーで地元のクラフトビールを見つけ、一杯したい気持ちになるのをぐぐっと抑えて、石巻を目指す。

石巻では、津波で町の区画が丸々一つ失われた。この町の人々は、そこを復興するのではなく、丸々祈念公園にしていた。立て直すのはきっと現実的ではなかったのだろう。真ん中に新しい資料館があり、その日の記憶を今に伝えていた。驚くほど多くの人が来ていた。公園の向かいは、津波で廃墟と化した小学校が、これまた資料館として生々しく残されていた。

資料館の高さは、津波の高さに合わせて作ってあるとのことだったた。7m位だっただろうか。見上げてみると、絶句する高さだ。と言葉でいっても伝わらないのがもどかしい。そう言えば、港でも新しい排水ポンプ設備の上が津波避難所になっていた。津波と逃げる人の絵が描かれた、大きな緑色のマーク。上へ登るための階段。とても頑丈に作られた建物。 ここへくる道だって何でこんなに高く盛り土をしてあるのかと思ったけど、津波を防ぐためだったに違いない。 これだけのものをつくらないではいられなかった、この街の深い悲しみを感じて胸が塞いだ。

廃墟として残された小学校

そんな石巻の食堂で晩御飯#1をし、ホテルに辿り着き、ラーメンで晩御飯#2をし、今回転寿司で晩御飯#3を待っている。食欲が旺盛な上に、ご飯が美味しいと来ている。外は強風。明日には穏やかになってくれると良いのだが 。

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