この旅の間、僕はずっと写真を撮っていた。2600mの山に自転車で登る時にも、1kg近いカメラを運び、結局6000枚ほど撮った。それでも、写真には写らなかったフランスがたくさんある。撮れなかったものもあれば、撮ったはずなのに、後で見返すと何かが抜け落ちているものもあった。
フランスに着いた最初の夜もそうだった。Amboiseの旧市街の上に広がる大きな空。六月らしい長い昼がようやく暮れかけ、澄んだ空に横からの長い光が差し込んでくる。地上の暗がりと、建物の壁を照らす夕陽のドラスティックなコントラストが、とても美しく思えた。パリから長い道のりを、緊張しながら運転してきた。そういう気持ちも関係あったかもしれない。でも、うまく写真には写ってくれなかった。
時間を掛けて眼前に展開する光景が撮れないこともあるが、一瞬の光景が鮮烈すぎて、カメラに撮れない場面もたくさんあった。
友人と歩いていた時のことだった。Toulouseの街を散策していたら、赤のワンピースを中心に、帽子から靴まで赤でコーディネートされたお洒落なおばちゃんが、自転車に乗りながら僕らを追い抜いていった。彼女は、彼女を追い抜いたトラックのことが気に入らないらしく、そのトラックの運転手を呪詛する言葉を並べていた。フランス語の分からない僕にも、トーンと仕草だけでハッキリ分かった。日曜日なのにビシッと決まったよそ行きの格好で、のんびりと自転車に乗り、そして自分よりずっと大きなトラックに平然と文句を並べていく…そのパワーというか、怖いもの知らずさを僕は微笑ましく思った。写真がないからこそ、声と動きと赤い服が一体で強い印象を今も残している。
自転車で田舎道を走って行くと、時々すごく気になる門構えがあったりする。門の先は道がすっと木の陰に消えていったりして、奥に何があるのか分からない。知らない人生をそっと守る、知らない誰かの家。撮った写真を後で見てみても、そんな密やかな物語性は蒸発していて、何だかよくわからない門と大樹だけが写っていたりする。
写真は、後に残す、という意味もないではないが、自分の心を震わす美しさに敏感であるための薬でもある。 停まり、カメラを構え、絵の作り方を考え、シャッターを押す。先を急ぎがちな自転車の旅で、30秒くらいの間、時間を掛けて、美しいものと向き合う。そういう風に自分を仕向けるための薬。
美しさに向き合うための時間が30秒では足りないなと思うこともあった。Chenonceauという、川に架かった美しい古城があった。青空に映える白亜の石灰岩でできた壁。実に加減がちょうどいい装飾。大きな塔。川の流れが窓から大きく見え、太陽の明かりと水面の反射の明かりが窓から入って室内を明るく照らすように設計されている。川岸の庭から見ると、今度は薔薇が前景となって、また一段と装いを増す。絵に描くなら、透明感のある淡い色の水彩で描きたいな、と思わせるような、可憐なお城。
美しいお城だとは聞いていたので、それなりに覚悟とか期待とかしてきたのだが、実物を目の前にすると、ため息というか笑い声というか、そういうものしか出てこなかった。フランスの人たちが代々磨き上げてきた美しさの型の一つの頂点に君臨しているのではないか。こうして書いていても、やっぱり言葉ではうまく形容できない。でも、ここに来た人みんなが息を呑む。どうだった?と後で聞かれると、「綺麗だった…」と何も伝わらないことしか言えない、そんなところなのだ。スケッチブックを家に置いてきてしまったのが悔やまれた。この庭でちょっと座って、写生でもしたら、実に贅沢で満ち足りた一時になったはずなのに。
そう、この旅に僕はスケッチブックを持ってきていた。携帯できる手のひらサイズの小さなスケッチブック。時折、自転車で出掛ける時にこれも持っていくことにした。
早朝から走り始め、フランス全土に遍在するパン屋で停まり、クロワッサンとコーヒーで休憩をした時のことだ。ちょっとここで一休みしたくて、食べながらスケッチブックを取り出した。一人で旅する時ならではの、きままな時間の使い方。

通り向かいの可愛らしい家は、郵便局になっていた。フランス国旗の美しい色、La Posteの黄色、木々の緑、そして開店を待つ数人の人々。何に惹かれて描こうと思ったのかは未だによくわからない。しかし、この椅子から描くなら郵便局だということはハッキリとわかっていた。スケッチしたいなと思う景色と、写真を撮りたいなと思う景色は別なのも面白い。これは一体どういうことなのだろうか。
大きな形からさっと思い切って線を引く。間違えても気にしない。おっ、あんなところにランプが生えている。あの窓の向こうには何があるのかな。そういう細かいところを観察して、描き加えていく。
写実的に描く必要はない、ということもしばらく前に学んだ。木の枝ぶりとかは、質感だけをグリグリと手早く写し取るくらいが丁度いい。人々が動いてしまっても別に気にしない。あっちの人をこっちに配置して…。ここの木は邪魔だから描かないで…。写真ではできない編集が、スケッチなら自由自在だ。
この何気ない景色に没入し、しばらく無心に手を動かす。言葉で論理的に、構造的に考えようとしないのもいいのかもしれない。時の流れがゆっくりになり、この場に僕が溶け込んでいく、そんな不思議な感覚。ほんの15分くらいのことなのだが。 時々忘れないようにクロワッサンをかじり、冷めていくコーヒーを少しずつ飲む。
ペンで線を描いたら、鉛筆で濃淡を軽くつけていく。これで立体感を出すのが楽しい。
本当は、色も塗れたらもっと楽しいのだが。
実は、水彩の道具も一式全部持ってきていた。旅のどこかで、写生をしたいなと思っていた。ピクニック用の小瓶のワインでも持って、木陰に座って、目の前の景色を描いたら。残念ながら、最後までこれを使う機会はなかった。あれもこれもやりたいと気が急いてしまった。そんな贅沢な時間の使い方はもったいないと思ってしまったのだが、今にして思えば、そうやってもっとゆっくりと時間を使わなかったことのほうが、もったいなかったような気がしなくもない。
撮った時には確かに心が動いたのに、写真だけを見ると何でもない景色に見えるものがある。でも、その一枚を手がかりにすると、光の角度や、その時の空気や、立ち止まった時間が少しずつ戻ってくる。そういう写真の中から、後でゆっくり水彩画を描きたいとは今でも思っている。フランスのワインでも飲みながら。
