白身魚をオリーブ油で焼きながら、ラタトゥイユを作っていた。オリーブ油のはぜるパチパチといういい音。トマトのいい匂い。ふと玄関のガラスドアを見やると、犬がこっちを見ている。Bordeauxの郊外の農家のこの家には、犬が二匹いるのだ。入ってきたいのかな?ドアを開けてやると、中に入ってきた。バゲットの切れ端をあげると喜んで食べ、触ってくれとばかりにお腹を見せて、尻尾を激しく振ってくれた。愛され方をよく知っている犬だった。
その犬を見て少し安心した。少なくとも食べ物は、言葉より先に、この家の中で通じるらしい。フランスで、この土地と繋がるためには、この土地の美味しい食材を美味しく調理しなくては、と思っていた。ここまで来て、醤油とみりんと料理酒で味付けた日本の家庭料理を作ってもしょうがないではないか。そう思い、この旅のために、フランス料理を練習してきたのだ。
時間を少し戻すと、三日目、Amboiseの家で、フランス最初の料理が、Sachaに振る舞う最初の料理になった。半年ほど前、会社のSlackチャンネルで、「料理を練習中です」という書き込みを応援してくれたのも彼だったから、この夕食は、そんな彼への僕の進捗報告でもあった。 叶うならば、一人で買い出ししたり料理したりして、少しフランスの台所事情に慣れてから取り組みたかったが、スケジュールの都合上こういうことになった。えい、ままよ!
彼の運転する車で地元の大手スーパーに連れて行ってもらった。初めて見るフランスのスーパー。フランスのスーパーでは、カートを借りるためにくぼみに硬貨を差し込まなくてはならないのだが、初見の僕にそんなことがわかるはずもない。ああでもないこうでもないと気を揉んでいたら、近くまで人が来たので、教えてもらうことができた。 明るい照明、広大な店内、フランスらしい見渡す限りのワイン棚。これから一週間お世話になるところでもあり、どんな食材があるのか、みんなは何を買っているのか、じっくりと眺めたい気持ちを抑えて、とにかく今日の料理のための材料に集中する。ラベルも読めないし、オリーブ油なんか無数に種類があるので、どれを買っていいのか、一々時間が掛かる。
家に戻り、料理を始める。レシピは慣れたものを使っているのだが、何しろ他人の台所なので、ここでもドタバタ劇が続く。計量カップも計量スプーンもない。菜箸もない。普段意識することもなく当然のように使っているものがない。自分の常識が粉砕される快感。
前菜に西洋ネギのブイヨン煮(ちょっとブイヨンが濃すぎた!)、メインに鶏肉とキノコのトマトソース・スパゲッティ、デザートはたしか果物と、一通り何とか形を付けた。SachaはMargauxの赤ワインを持ってきてくれた。彼はお世辞かもしれないが、おいしかったと言って全部食べてくれた。夕食の後、そのままだらだらと歓談し、庭のテーブルに移って歓談と飲み食いを続け、ワインを空にし、お菓子まで食べ、沈む夕陽を見て、庭の木に張られていたロープの上を二人で行ったり来たりして一日の終わりを惜しんだ。
他人の台所で料理することは、道具の場所や足りないものを通じて、その家の暮らし方を読むことでもあった。とはいえ、このAmboiseの家は、そもそもがゲストハウスなので、本当の住人の息遣いを感じることはなかった。でも、誰かが普段住んでいる家には、誰かの人生の匂いがしっとりとしみついているものだ。
プロバンスの家は、そういう家だった。1 bedroomの家を借りたので、こぢんまりした小さなところをイメージしていたら、なんと立派な邸宅だった。ベッドルーム二つに錠がされている。多分それが主寝室と、貴重品などを運び込んで保管してある部屋。この家には、誰かが結構長いこと住んでいたのだな、と感じさせるもので溢れていた。
食器棚に並ぶ、時間を掛けてコレクションしたと思われる食器の数々。トイレには訪れた国や地域に印を付けていく地図があり、日本も含め、五大陸の相当な数の国を訪れた記録が残っていた。本棚にも旅行記を始め、色々な本が並んでいる。フランス語なので僕には分からないが、クラシックな漫画や(千と千尋の神隠しのアートブックまで!)、古典全集と非常に理知的で個性的だ。 クラシックCDの膨大なコレクション、数十枚のレコード盤、そしてピアノまであった。
大きな家だけあって、キッチンもとても立派だった。ガスのコンロが4つあるし、食器洗い機も、フルサイズの冷蔵庫もあるし、ルクルゼの分厚いお鍋も、圧力鍋も、オーブンもある。到着した瞬間から、ここで料理をするのが楽しみになった。
この家での一番大きな料理プロジェクトは、週の後半のことだった。ちょっと離れた鮮魚コーナーのあるスーパーまで行き、鯛を丸一匹買うという初めての体験。ここで、鱗と内臓を処理して貰う。お腹のなかにハーブやニンニクを詰め、塩をすり込み、ルクルゼの鉄鍋の中に野菜で作ったベッドを作り、鯛をどーんと載せ、蓋をしてそのまま丸ごとオーブンへ…!フランスでオーブン料理デビューとなった。
時間は掛かるけど手間が掛からない割には、うっとりするほどホクホクでフワフワになった。もっと遠慮なく塩をすり込んだ方が美味しかったな、と思うが、この家、この台所、この道具立てで再挑戦する時間はなさそうだ。
塩を足りなくした鯛をやり直せないように、食材にも二度目がない。Bordeauxの家でのことだった。近所のスーパーの向かいに、高級食材店があり、そこで極太の逞しい白アスパラガスが売られていた。日本で見るひょろっとしたのとはまるで別物だ。これはなんともフランスらしい食材ではないかと思い、買って料理してみることにした。なんと、柔らかく茹でてビネグレットソースを掛けるだけでいいという。実際、そんな簡単な調理なのに、口に含むと、中からじゅわっと広がるアスパラの味。顎が落ちるほど美味しかった。ただ、季節の終わりだったらしく、後にも先にもこの店以外で見かけることはなかった。
ワインは、もっと一期一会の極みだった。最初の夕食にSachaが選んでくれたChâteau Brane-Cantenac。ボルドーの有名なMargaux村の、フルボディのどっしりとしたワインだった。一週間後、実際にこの地を自分の脚で走ったら、ワインの味と、空気の匂いと、景色といった五感が一つに結びつき、忘れがたい記憶の結節点となった。同じ日に走ったSaint-Estèpheのワインを買って家で開け、その日の旅を思い返すのもとても楽しかった。Avignonで再会したSachaは、今度はChâteauneuf-du-Papeの赤ワインを持ってきてくれた。これも、開ける前に実際にその土地を自転車で走った。ワインのことなんて何も分からなかったし正直興味もなかったが、それは大きな僕の考え違いで、こうやって一本ずつ縁を作っていくと、世界との関わり方はずいぶん変わるのだなと思った。
San Joseに戻ってきても、僕のワインの旅は続いている。カリフォルニアでおいしい葡萄の種類は何か。同じ葡萄で作ったワインでも、フランスのとカリフォルニアのと味がどう違うか。僕の食器棚には、最近買った新品のブルゴーニュ・グラスが鎮座している。なにかの拍子に、チーンといい音が鳴り響くと、フランスの旅のことがふっと蘇る。


