今回の旅は広島からだ。あとから思えば、この日は、戦争の記憶という重荷と、そこからの再生・昇華の道のりをなぞる旅になった。
朝五時の新横浜駅で、新幹線の改札が開くのを待った。新幹線の始発は6時から。意外に遅い。自転車の分解・梱包に時間が掛かることを想定して一本遅い新幹線を予約していたのだが、予定より早く行動する性格のせいで時間が余ってしまう。幸い、始発に繰り上げることが出来た。普段は人でごった返している駅に人がいない、というのがとても新鮮。
名古屋までの新幹線は、以前の東海道の旅の足跡を辿る思い出深い道のり。あの時通った道、渡った川、見た景色、そういったものが車窓を流れていく。今日は天気も良く、富士山も朝日に照らされ、クッキリとした陰影がとても美しい。
名古屋からは、新幹線は東海道を離れる。みちのくの自転車の旅で、川と治水の歴史にがぜん興味が湧いたので、木曽三川が小さなエリアに集中する濃尾平野に興奮し、しばらくAIと対話するのに夢中になった。こういうことをサッと調べられる時代になったのが本当に素晴らしい。川の水害なんて、現代に生きる僕の意識に上ることはほとんどなかったが、川はほっておけば勝手に砂が溜まって流れが変わるし、治水することで平野が農業に適した肥沃な土地に変わるし、防衛にとっても流通にとっても大事な、中世を考える上では欠かせない地理的要素なのだ。
新大阪から先は、東京ベースの僕には更にアウェイ感が強まり、見知らぬ土地に旅に出るぞ、という気分が盛り上がってくる。窓の外に見える明石海峡大橋、今度はこの構造と工学的ハイライトについてAIと対話して盛り上がる。機械というのは、固くて頑丈な構造物としての理解がまず一次近似としてあって、次にどこに柔らかさと遊びがあるのかという理解が二次近似としてあると思っている。橋にも同じような性質がある。そういう設計の妙にアクセスするというのは、この橋を作った人々の誇りにアクセスするということだ。
そんなこんなしていたら、広島までの新幹線移動はあっという間だった。人混みでごった返すコンコースをかさばる自転車を肩にしょって歩き、外に出たところで組み立てて、滑り出す。最初は準備体操のように、確かめながらゆっくりと。
広島城をちょっと周り、そこから原爆ドームから平和記念公園へと進んでいく。以前、平和記念資料館を訪れた時の事が思い出される。原子爆弾が炸裂したあの瞬間に展開された、桁違いの圧倒的な暴力と、それに命を奪われ大きな苦しみを背負った数多くの人のことを思うと、胸が詰まり、感極まる。石巻の震災祈念公園の事も思い出す。しばらく目を閉じて手を合わせ、心が鷲づかみにされるに任せる。ここは本当に涙を流さずには訪れることのできないところ。でも、合掌していると、世界の平和さ、人々の楽しそうな会話の声が聞こえてきて、心落ち着いた。そう、僕の周りは、平和な土曜日だ。修学旅行の学生や、海外の観光客が沢山訪れて、ガイドの説明に神妙に聞き入っている。広島の祈りは、多くの人々に届いているのだ。そこには何かの救いがある気がする。
広島を離れ、呉へと向かっていく。日本製鋼所の巨大な工場脇を通り過ぎる。かつて戦艦大和の主砲を作った軍需工場が、その技術を活かして原子炉圧力容器を作っているらしい。原爆の被害を受けたこの街で、俺たちの技術で原子力を平和利用してやろうじゃないか、なんて最高に格好いい心意気だ。柔道の鮮やかな返し技を彷彿とさせる。
混雑していた道もいつの間にか空き始め、ついに道は海沿いを走り始めた。一面の潮の香り、これが瀬戸内海か! 道路と、単線の線路が、山と海の狭間をグネグネと縫うように這っていく。海のすぐ向こうには島が見え、その奥にはまた重なるように別の島。小さな砂浜。あちこちへ静々と行き交う船、船、船。トンネルに吸い込まれる国道を離れ、ちょっと回り道をして海沿いを通っていく。国道から離れたところに、バイクの修理工場に併設された素敵な喫茶店があり、ここに引き込まれた。やっぱり旅は目的地ではなく回り道だ。
呉の街では、大和ミュージアムに立ち寄った。大きな戦艦大和の模型があり、週末らしく人出で賑わっている。僕も少年時代に一通り嵌まったし、1/700の大和のプラモも当時作ったくらいだから、嫌いではないのだが、大和そのものよりも僕の心を一番打ったのは、戦前のその造船技術が、今もまだ世界最大級のコンテナ船の建造技術に活きているということだった。
そう、戦艦といえば、日本では軍艦には国や山河の名前を付けるのが習わしだ。阿武隈も北上も巡洋艦の名前として使われた。ここに住む人々を守る、そういう願いは、現代を生きる我々にもよく分かる変わらぬ思いだ。船というのは、ただの鉄の塊ではない。任務が、送り出した人々の願いが乗っているのだ。そういう思いを結晶化するために、山河の名前をつける、というのは、自転車で日本を走ってきた僕にはすごくしっくりと感じられた。
大和ミュージアムの向かいには海上自衛隊の史料館があり、なんと本物の潜水艦が丸々一隻高々と飾られていて人目を惹く。時間がちょっと気になるところではあったが、ここまで来る機会もそうはないと思い、せっかくなので見学した。掃海艇の湾岸戦争での活躍、海上保安庁の歴史、そして潜水艦の発展についての展示。大和ミュージアムの旧軍の展示にも影があるが、自衛隊の展示にもそれとは別の影がある。展示のところに立っていた人々は、現役か退役かは分からないが、軍関係者のように感じられた。何か一言敬意を表したいと思ったが、どのようにすればよいか分からず通り過ぎてしまったのが悔やまれる。道路を挟んで新旧の海軍の歴史を一度に学べてしまう、呉はそんな贅沢なところである。
冷房の効いた史料館を出て、昼の太陽に焼かれた自転車にまたがり、また漕ぎ進んでいく。呉の観光地を過ぎると、道は呉の造船所を見おろすように続いていく。80年前に大和を作った海軍工廠はこの辺だろうか。今はJapan Marine Unitedという聞き慣れない名前の会社になっていた。護衛艦を建造しているドックからは、海軍工廠から続くDNAを感じ取らずにはいられないが、その一方で、コンテナ船や漁船も作っていた。ハードウェアとしての工場だけではなく、この場で連綿と続く人の営み、ソフトウェアの方を知りたいなという気持ちが湧くが、部外者にはアクセスすべくもない。残念だ。
呉を離れると、人影がまばらに。その代わりに立ち現れてくるのが、入り組んだ入江のそこここに立っている巨大なクレーン。造船所だ。土曜日なのに、クレーンには人が乗って操作しているのが見える。あそこに上っていくだけでも一苦労そうだ。トイレに行きたくなったらどうするのだろう。お昼もあそこで食べるのかも。あの上から見たら、どんな眺めなのか。海の底から海面を眺めるような気持ちで、クレーンの下を走っていく。ここでは、海が工場を繋いでいるから、のどかな田舎道の曲がり角の先に、唐突に大きな工場が現れる。瀬戸内海らしい景色。
漁村から漁村へと数珠つなぎに進む旅。集落を離れ、少し丘を登り、滑り込むようにして次の漁村へ。下り道が曲がりパッと視界が開ける時の興奮。自転車冥利に尽きる。漕ぐ足に力が入る。
福島で村から村へ渡っていた時のことを思い出す。ここでは、海は島と島に挟まれ、人は山と海に挟まれ、全てが窮屈そうだ。福島にあった広大な水田など、ここには作る余地がない。お米など、ほとんどとれないに違いない。仙台平野のようなあの肥沃な土地は、垂涎の的だろう。しかし、そのハンディキャップが、ここでは塩であったり、造船であったりと、商工業の発展に繋がったのだ。何が悪いことで何が良いことなのか、本当に視点次第だ。
海には牡蠣イカダが沢山置かれているので、牡蠣が食べたいなと思い、幟が立っていた売店に立ち寄る。中国は山東省から来たというおばさんがやっていて、しかしお客が少ないのでなんと今日で閉店とのこと!閉店30分前に僕が立ち止まったのも何かの縁としか言いようがない。立ち話をしながら、多分この店最後の牡蠣フライを食べた。牡蠣フライの熱さに、今日で店じまいする作り手の気持ちを感じ取ったのは、僕の気のせいだろうか。
今日の目的地、竹原は、塩で有名な街なのだそうだ。その塩で得た富を、今度は日本酒の製造に注ぎ込んだ。その当時の豊かさを思わせる、江戸時代の古い街並みがまだ残っている。この地区にあったお店で広島風お好み焼きを食べ、この地の焼き牡蠣と、この地の日本酒を飲み、日暮れ時の写真を撮り、宿屋に向かった。
日が暮れると人の気配が全くなくなり、街が静まり返るのに驚いた。さっきまでお店にいたはずの人々はどこへ消えたのか。千と千尋の神隠しって、こんな風に始まらなかったっけ?
暗い街並みに、電球がポツポツと灯り始め、往時を想像させる静けさ…。小高い丘の上のお寺に詣で、広島で手を合わせた朝からの長い一日が、山の向こうへと消えていくのを穏やかな気持ちで見守った。




