東海道600km自転車の旅

僕が自転車での長旅に取り憑かれたのは、サンフランシスコからロサンジェルスに自転車で旅してからだ。来る日も来る日もただ遠くへ。旅の途上での見知らぬもの・場所・人との出会い。自転車の長旅は冒険そのものだ。

日本でもやってみたいと思っていた。幸い、古いロードバイクを日本の家に運んで来ることも出来た。それで、と思ったのが東海道だった。前に富士山の麓を一周した高校時代の同級生を誘ったら、彼も来てくれた。冒険好きの男は、一定数いるものらしい。

こうして、五日間、600kmの旅の計画が立った。

一日目 (日本橋→箱根 120km)

初日は、朝五時半に家を出て、まず20km位乗って日本橋へと向かう。京都とは逆方向なのだが、やはり東海道を往くとなれば、日本橋から始めなくては形がつくまい。日の出と重なる、旅立ちの高揚感。途中の道で、同じく都心へと向かう通勤ライダーと片言を交わす。京都へ行くというと、驚きと羨望の混じった眼差しを向けられるのが、こそばゆく嬉しい。僕はこれから一生モノの旅に出掛けますよ?あなたはどちらへ?

都内へ向かう道は早朝なのでまだ空いている。日本橋で友人と合流して改めて出発したのは7時。徐々に街が活気を帯びていく中、一路南へと向かう。通勤通学の人々が街に溢れはじめる。まるでスポンジから水がしみ出してくるかのように、あらゆる小道から人々が現れ、合流して徐々に大きくなり、やがて大河となって駅に吸い込まれていく。この街の人口密度たるや。

藤沢で、遊行寺に立ち寄った。境内で甘味を売っていたおばさんと少し言葉を交わす。何でも、代々藤沢で旅籠を営んできた地元では有名な家系だとか。この饅頭も、住職の依頼で生まれたらしい。旅籠はもう畳んでしまったが、親戚は今でも藤沢で料理屋をやっているし、ご本人はこうして和菓子を作っているのである。遊行寺の歴史も長い。この地で、彼女の遠い祖先が、江戸時代、街道を行く旅人と同じように言葉を交わすところを想像した。空や緑や、このお寺の有り様は、当時もそれほど変わっていなかったに違いない。交わされた言葉も、きっと。連綿と続く時の流れを感じて、気が遠くなった。

遊行寺の大銀杏

江ノ島に出ると、眼前が一気に開ける。太平洋。色鮮やかなウィンドサーフィンが海を彩っており、平日にもかかわらず多くの観光客で溢れていた。天気も快晴で、遠く富士の偉容がはっきりと見える。ここまでは自転車で既に来たことがあるのだが、ここからは正真正銘の新しい道、未知の土地。気持ちが高揚した。緩やかな弧を描く相模湾を左手に、海岸沿いの砂まみれの自転車道を走っていく。トンボが飛び交っていて、実に秋らしい。空も海も実に広く青い。

茅ヶ崎で、茅ヶ崎ビールに立ち寄って昼食とビール。開放感のある、とても陽気な、実に湘南らしいお店でとても良かった。店員さん達も年齢不相応に可愛らしい制服を着させられているのがどこか艶めかしい。耳にはビールのピアス。店員さん達もきっとこのお店が気に入っているのだなと思わせる。

大磯の昭和らしい駅舎に立ち寄って、引き続き海岸近くを走り、気付けば小田原であった。ここで小田原城に立ち寄ってちょっと観光。やはり自転車旅行の醍醐味は寄り道である。ここのお寺に、我らが母校、麻布中学への進学を祈念する絵馬を発見し、ちょっと誇らしい気持ちになる。銘菓ういろうを食べようと地元の甘味処に立ち寄り、そこから箱根ビールなどにも後ろ髪を引かれつつ、箱根湯本へ到着したのはまだ午後も早い時間であった。

本日最大のくせ者が、ここからホテルまでの脇道。何と、斜度21%の登りである。こんな急傾斜は初体験かもしれない。速度が出ずに倒れてしまうかもしれないという恐怖を克服し、これを登り切った時には大変誇らしい気持ちになった。

小さな宿に辿り着き、荷をほどき、ビールで乾杯し、大浴場に入り、立派な夕食に舌鼓を打ち、一日目は無事に終わった。夕食で酔っ払っていた伊東君が非常に可愛らしい。

酔った伊東君のいい笑顔

二日目 (箱根→島田 130km)

今日は、箱根越え、かつ本旅行で最長距離をいかないといけない。宿の朝御飯を待っていては短い日照時間を最大限活用できないので、日の出と共に宿を出る。

箱根湯本のコンビニでおにぎりを朝御飯代わりに食べていたら、自転車で同じくコンビニを訪れていたおじさんと言葉を交わす機会があった。彼は、地元の人で、ロードバイクにも乗るらしい。京都に行くというと感激してくれて、箱根の登りについて色々親切に教えてくれた。この人が、自分の夢まで僕らの肩にちょっと乗せてくれたように感じた。

箱根の登りは素晴らしかった。緑に溢れた道を上っていく。ところどころに、大変美しい日本旅館や吊り橋。山の上を登っていく登山電車。まだ早朝で車通りも比較的少ない。駅伝の練習をしているのか、時折凄いスピードで駆け下りてくる走者もいる。

伊東君は箱根の登りを大層危惧していたが、僕にしてみれば、800m程度の登りは週一でやっているので、何も怖れることはない。この空気を満喫し、写真を撮りながらゆっくりと登っていく。

箱根路

恐ろしいのは下りの方であった。舗装が悪く、一瞬とて気が抜けない。安全のために車線全部を占拠せざるをえず、しかし後ろの車は結構容赦なく追い抜きを掛けてくる。視界は開け絶景であったが、写真を撮ったり風景を眺めたりする余裕はほとんどなく、ほうほうの体でようやく三島まで辿り着いて一息ついた。

三嶋大社に立ち寄って観光とひと休憩。駐輪場を探していると、子供連れのお母さんが声を掛けてくれた。こういう一言の繋がりがどれだけ心を暖めることか。結婚式の記念写真を撮っている一行がいて、僕もおめでとうございますと声を掛ける。観光してから、ここで草団子。やはり、運動中は甘い物である。

三島から沼津に出て、そこからは昨日の景色を彷彿とさせる、駿河湾沿いの自転車道路。時折後ろから早いライダーが僕らを追い抜いていくので、しばらくの間後ろに乗せて貰って距離を稼ぐ。右手には千本松原。大変美しい景色である。この自転車道が終わるところで国道に戻る。

ここのコンビニで出会ったのが、三人のフィリピン人ライダー達である。僕は、愛着を込めて3 amigosと呼んでいる。年の離れたデコボコ三人組。地元の人らしい。ここでも、京都に行くというと羨望のこもった眼差しで見つめられた。世間の人々は、どうしてこういう突拍子もない冒険をやらないのだろうか。やれば出来るのに。多くの人が、見えない常識か何かに捕らわれて、その外に踏み出せないでいるように感じた。大した事じゃないのに。この三人は大変陽気な人々で、しばらくとても楽しい時間を過ごした。こういう人々が、日本に移住してくれ、この地に根を張ってくれている、という事を、とても嬉しく思う。

道路は更に先へ続く。右手に迫った富士をチラチラと片目にしながら富士市を通る。あいにく、雲が掛かっており綺麗には見えないが、時々山頂の一部が顔を見せてくれる。ちょうど山頂の雲が綺麗になくなった一瞬を見計らって写真をパチリ。

富士が近い

富士川を渡ると、一気に山が海に迫ってくる。海と山に挟まれた狭い通路を僕らは走っていく。由比宿で昼食休憩。宿の前を掃除していたおばさまにお声がけいただいたので、そこに入ってみる。こういうのも、何かの縁である。ここは大変に桜エビ推しの街であるので、生桜エビ丼をいただく。100年方やっているという由緒正しい家族経営の旅籠であり、感激する。室内に飾ってあったクロスステッチングについて、お婆さまと暫く歓談もした。僕の守備範囲は結構広い。

由比宿を越えると、薩埵峠。ただひたすらに道を往く。この辺から市街地がずっと続いていた印象があるか、記憶が定かではない。駿府城跡をさっと巡り、地元のクラフトビール屋で乾杯する。雑居ビルの二階のお店ではあったが、とてもよいところだった。

静岡市を越え、安倍川を渡り、鞠子宿では看板に惹かれて入ったお店が、なんと創業以来400年のとろろ汁屋。安藤広重の浮世絵に描かれているというのだから、半端ではない。若い頃は、新しいものを切り拓いていく事にだけ魅力を感じていたが、大人になって、長く続く何か、自分より大きな何かを次に渡していく事の良さ、そういうものも感じるようになった。400年の歴史のある料理屋を継ぐ、それを続けていくというのは、どういうものであろうか。そんな事を思いつつ、とろろ汁をおいしく頂戴し、ついでにローストビーフまで追加注文した。旅人はお腹が空いているのだ。

そんな歴史の長いとろろ汁屋をよそに、鞠子宿はほとんどが普通の住宅地になっていた。かつての本陣には碑こそ建っていたが、その後ろでは、更地に新築の家を建てている真っ最中であった。人が生きる、というのはそういう事であるのかもしれない。しぶとさ、逞しさ。

ここから先にも、旧東海道の宿場が幾つかあったように思うが、折から降り始めた雨に気を取られて先を急いでしまった。

島田宿にて、本日の旅は終わり。古風で立派な木造日本家屋が料理旅館として使われており、狭いながら大変趣があって良かった。風呂場など、ほとんど誰かの家に泊めて貰っているような錯覚を覚えるほど、一般家庭のそれである。旅館のご主人が親切に、裏手に自転車を停めさせてくれ、雨露避けにとブルーシートを掛けてくれた。ここには蜘蛛の巣が沢山張っていて、大きな蜘蛛が沢山蠢いており、僕は背を伸ばしたら蜘蛛が頭に付きそうで気が気ではなかった。

三日目 (島田→豊橋 115km)

宿のご主人の厚意で朝御飯を早くに出して貰い、七時半には出立した。まずは、大井川に掛かる日本最長の木造橋だという逢来橋を観に行く。なるほど、大井川の広い河原敷きを突っ切るようにして、か細い道が通っている。通行量100円、という事はつまり現役で使われている橋だということなので、喜び勇んで半分位まで渡ってみた。木の床板はかなり年季が入っている部分があり、釘の頭が出ているところもあるので、自転車通行には慎重を要する。橋の手すりは僅か30cm位の高さしかなく、手すりと呼べるような高さではない。うっかり転倒したら下の河原まで真っ逆さまだ。これはかなり怖い。しかし、戻ってきて袂に展示されていた昔の写真を見ると、橋が架かった明治の頃はもっと傾いた、歩いてさえ渡るのが憚られるような橋だったという事が分かった。土木技術の進歩のありがたさ。なるほど、大井川には橋が架けられない時代が長かったわけだ。

街に戻り、大井神社に立ち寄って道中の安全を祈願し、復元された大井の川渡の番小屋などを見る。番小屋の中に、川渡の人足が蝋人形で再現されており、半被を着て、その下は褌一丁である。筋骨隆々の身体でこちらを睥睨する鋭い目線!マッチョな文化とコミュニティが形成されていたのだろうなと想像させる出で立ちである。実に格好いい。

大井川を渡り、対岸の金谷の山を登っていく。眼下に、大井川と昨日泊まった島田の街が見える。沿道にラブホテル、というのが田舎の光景である。このあたりでは、国道一号を離れた道になっており、車通りが少なく気持ちよい。そのまま反対側を滑り降り、山間の小さな日坂宿。ここでは結構古い家が残されており、新しい家にも看板で昔の宿の屋号などが大書されていた。こうやって小さな宿場がぽつんとあると、往時の雰囲気を想像させる。

静かな日曜日の掛川の駅前商店街を走り、掛川城によって天守閣を見学していく。この辺りでは、東海道の松並木が一部残されていたように思う。かつてはこの松並木は何百kmと続いていたのであろうか。延々と続く市街地を、浜松を目指して走って行く。この道路は地元の生活道路である。軽自動車などが走り回っている。運転席の窓ガラスを覗き込んで、人々の暮らしを想像する。

浜松では何か美味しいモノを食べたいなと思ったのだが、いいお店に巡り会わない。伊東君曰く、餃子が有名との事なのだが。暫く先に進んだところで、ラーメン屋に立ち入る。無数の入れ墨を彫った強面の、しかし非常に礼儀正しい店主が印象的だった。ただ、餃子はなく、しかもラーメンは量が足りない!ここ数日は、大体ランチは二回食べているので、追加注文ではなく、次のランチは何に出会うかな、などと期待しながら、浜名湖を目指して真っ直ぐ進んでいく。

浜名湖では、久々に水辺に出た喜びで、ちょっと寄り道をすることにした。新幹線の高架をくぐったちょうどその時、頭上をトップスピードの新幹線が轟音を立てて通過していった。あの巨大な質量が、あんな速度で、こんな至近距離を通過していく…という興奮にゾクゾクする。通過する新幹線を間近で見るのは、官能的な体験である。

浜名湖

興奮で必要もないのに無駄にカロリーを使ってしまい、しかもランチが少なかったのもあるのか、この先の白須賀宿の路傍でちょっと力尽きて座り込んでしまった。携帯している食料を食べ、気を取り直し、潮見坂を登る。反対側のコンビニで追加のパピコを食べる頃には、青空まで見えて、気力が回復した。伊東君によれば、この先に甘味処もあるらしいとの事。喜び勇んで次へと向かう。

この先の二川宿は、綺麗に保存されており大変美しい宿場街だった。休憩するところを探していたら、地元の愛好家達が、河原や山で拾ってきた美しい石を展示している会に出っくわした。丁寧に台座や盆栽用の器に入れて飾られ、名前が付けられている。地元の老人ばかり五人ほどの集まりであるようだ。僕はこういう場が大好きである。何かを好きな人に、その良さについて語って貰う事ほど楽しい事はない。しかも、向こうは話したくてしょうがないと来ている。ちょっと水を向ければ幾らでも話してくれる。大変楽しい一時を過ごした。しかし、今日はまだもう少し先がある。

二川宿

ここから少し行って豊橋。豊橋は思ったより大都会で、何か街中お祭りをやっているらしく、賑々しい。豊橋城はお祭りの会場になっていて、天守閣までは辿り着けず。代わりに地元の小学生の作った図画工作の作品をちょっと見て回る事になった。その後は、メインストリートで繰り広げられるよさこい踊りを脇目に、地元のクラフトビール屋さんでビール。アラフォーの女性店員が二人カウンターの向こうで、お客さんのおじさん達と何か楽しそうに話しており、ひょっとしたらスナックというのはこういうお店なのではないか、などと考える。後で聞いてみたら、このうちの一人がこのお店のオーナーであった。逞しい!

ここから、真っ直ぐの道路を三河湾へ向かって暫く進み、本日のお宿にゴールイン。先日とはうって変わって、バブル期に建てられたと覚しき、大型リゾートホテルである。自転車をどうしようか相談したら、ロビーの脇に置かせてくれた。浴場も、何故かバリ風に仕立てられてはいるが、大変広く快適である。大きな窓から三河湾が一望出来て、部屋も広く、コインランドリーまで完備していて、大満足であった。しかも、お客さんはほとんどいない。

四日目 (豊橋→鈴鹿 130km)

翌朝、いつものように日の出と共に早起きし、暁天の写真を撮る。早朝から釣り人が岸壁に出ているのが見える。大浴場が開くのをシャッターの手前で待っていたら、見かねた警備員さんが時間より早く開けてくれて、おかげで広い浴場に一人で一番風呂となった。なんという贅沢。この警備員さんはトライアスロンをやるらしく、自転車の事について僕に話し掛けてくれた。そして、そのすぐ後で、お客さんに言葉を掛けたことに恐縮して丁寧に謝られてしまい、どこか可愛らしいなという気持ちになる。初老の男性の美学を見た。

朝御飯のビュッフェをしこたま食べて、のんびりと8時前に出発。朝の海沿いをしばらく走っていく。夜半の雨が空気を清浄にし、沸き立つような水気で山々が瑞々しい。雲が山肌から昇り立つようだ。紫雲ようようたなびきたる、とは実によく言ったものだ。何という爽快さ。

朝の三河湾

道はやがて忙しい国道に合流し、またしばらく行ってから生活道路となっている旧東海道へと折れる。この国には、津々浦々、実に多くの人が住んでいる。生活道路に感じる、人々の息遣い。

道は、御油宿の美しい松並木を通り過ぎていく。山間地を越えたところで、名鉄の赤い車両を目にする。いよいよ名古屋が近い。しかし、この辺りから道は国道一号となり、大変な混雑が続く上に信号も多い道のりとなった。ほとんどの運転手はちゃんと距離を開けて追い抜いてくれるが、時折驚くような至近距離から大型トラックに追い抜かれると、もうちょっと配慮して欲しいという気持ちになる。国道一号沿いは誤ったルート選択だったかもしれない。そしてダメ押しの向かい風。岡崎、安城、知立、豊明、ずっと街が続く。心を無にして一歩一歩進んでいく。

熱田神宮できしめんを食べて休憩、僕の席の後ろで、熱心に愚痴る若い女性と、それを聞く若い女性との会話に耳を澄ましてしまう。共通の友人が、彼女の洋服やアクセサリーを真似するのが気に入らない、そんな気持ちが実に細かく具体的に描写されていく。ちゃんと話せば、と以外言いようがない話題に、ちゃんとフォローを入れてあげる相手の優しさ。今日も世界は平和だ。

ここから道は真西へと向かい、木曽川下流の河川が多いエリアを渡る。この辺りでは東海道は陸を行く道がなく、舟で海を渡っていたというから、さぞ水害が多い地域であっただろうと推察されるが、今は普通の街なみになっている。

揖斐川を渡ったところで河川地帯が終わり、桑名へ。ランチ#2をしたいのだが、ちょうどいいところがない。このあたりの名物は焼き蛤らしいので、ビールと焼き蛤をしたいのだが。そんなこんなしているうちに時間も結構遅くなり、日没までに目的地に着くまでには時間の余裕がないことが分かってくる。それなのに無情のパンク。道端でチューブをサッと入れ替える。刺さった物が見当たらなかったので、古いチューブが劣化したようだ。しょうがない、今日はビールはなしだ。

桑名市中心部をちょっと離れたところで、ようやっと東海道が国道一号を離れてくれて、久々のサイクリング向きの道路を満喫する。東海道が商店街のアーケードになっている一場面も。四日市の先で再び国道一号に合流し、鈴鹿へ。

東海道アーケード

今日のお宿は、鈴鹿サーキットホテルである。モータースポーツ好きのオッサン達の聖地かと想像していたが、遊園地が併設されているせいか、蓋を開けてみると小さい子供を連れた家族連れの聖地であった。見上げると真っ赤な大きな夕焼け。しかし、カメラを取って戻ってきたらもう終わってしまっていた。やはりカメラは常時肌身離さず持っていなくてはならないと心に刻む。

夕食のバッフェでは、「蛇口をひねると蜜柑ジュース」という、夢のような装置が設置されており、僕は感激した。制限時間があったせいで、充分に食事する事が出来ず悔しい思いをする。今日は食べ物に恵まれない一日であった。

ああ、この旅も明日で終わりか。

五日目 (鈴鹿→京都 105km)

日も昇らないうちからライトを付けてホテルを出、近所のなか卯で朝御飯。ここで日の出。今日も空が大きい。ここからは道がしばらく国道を離れ、村落の間を縫って進む。どの家も地方の家らしく、立派な木造で、意匠を凝らした瓦葺き、そして大きな鬼瓦である。こういう道の方が、トラックが行き交う国道よりもずっと楽しい。

乗っているうちに、朝の通勤通学時間に差し掛かり、向こうから防災ヘルメットを被って自転車に乗ってくる中高生に出会うようになった。井田川駅では、家から駅まで通勤人を送迎しているらしい軽自動車達が、ものすごい勢いで駅に集まっていた。きっと電車の到着が近いのだろう。実に、ここらしい景色。

ここから亀山を越え、関宿という、鈴鹿峠手前の大変美しい宿場街を通り抜ける。奥の山並みに向かって緩やかに曲がりながら進む道が、大変写真映えする。そして、静岡でもみなかったお茶畑。コスモスの花畑。

鈴鹿峠へと登る関宿

それが終わると、いよいよ鈴鹿峠。向かい風が強く、ほとんど進んでいる気がしない。道は車が走りやすいようになだらかに変化しているから、というのもある。箱根のように、景色が目まぐるしく変化する、という事はない。ひとしきり登ったところで、道はトンネルへ。トンネルのない昔は、この峠を登り切らなくてはならなかったのだから、さぞかし大変な道のりだったに違いない。そんな事をちょっと思いつつ、僕はトンネルで楽させていただく。

舗装は良かったので、反対側の下りは最高だった。滑り込むように甲賀の里へ。看板など、あちこちで予想通り忍者を前面に押し出していて、微笑ましい。

ここからはもう一路琵琶湖である。車通りも少ない道路を気持ちよく進む。やがて、道が琵琶湖にぶち当たった。実に感慨深い。ここが旅の終わりというわけではないのだが、道の終わり、という気持ちが強くする。

琵琶湖沿いを走って、大津の町。幸いにも素敵なランチにありつくことが出来て、ホッとする。旅の終わりだもの、何かちゃんとしたものを食べたい。町を走っているのは京阪電車。もう京都はすぐそこだ。いつものように、このまま旅が終わってしまうのが寂しいような、まだゴールに着きたくないような、そんな倒錯した気持ちになる。

もう30km位追加して宇治に寄り道しようか、と提案してみるが、伊東君は新幹線を繰り上げて帰京したいとのこと。明日の朝が早いらしいから、まぁしょうがないか。ここで別れるのも何か違うなと思い、僕も腹を括ってこの旅を終わらせることにする。

大津から山を一つ越えて、気が付けば見慣れた三条大橋であった。のべ600km、遂にここに辿り着いた!という感慨に対して、この景色はあまりに日常であった。東海道の終端を記念する碑のような物は何も立っていない。あまりに普通の、ありふれた町の忙しい交差点の景色。三条だって、別にこの交差点で終わるわけでもない。何かこの気持ちを満たしてくれるようなものが欲しかった、というのが正直なところだ。まぁ、でも、考えて見れば、何かの終わりというのは、いつもあっけないものだ。旅の意義だって、後から振り返りながら段々育ってくるものではないか。かくのごとく、現在に生きるというのはとても難しい。

新幹線の切符を変更し、駅にほど近い地元のクラフトビール屋で乾杯し、輪行袋に自転車を分解して収納し、弁当だのお土産だのを買って、どこかそそくさと慌ただしく新幹線に乗り込む。予約していたはずの荷物スペースが、規則を知らない外人観光客の荷物に占拠されているという事態もあったが、隣に座っていた人のおかげで本人を特定することが出来て、無事動かして貰う事が出来た。こういう時に英語が出来ると得である。

旅の無事を祝うビール

旅の終わりが本当に実感されたのは、この新幹線の車窓からかもしれない。僕らの五日間の旅路が、目の前で逆再生されていく。河一本一本、山並みの一つ一つに、記憶がこびり付いている。通過していく街の一つ一つを、思い出すことができる。ところどころ、実際に僕らが通った道路だって見る事ができる。泊まったところ、出会った人々、色々な場面が思い出される。それらが、走馬灯のように僕の眼前を飛び去っていく。五日がかりの壮大な旅だって、早送りしてしまえばほんの二時間だ。どこか、人生の儚さのようなものさえ感じた。

素晴らしい旅だった。人生で二度とない、旅。しかし、考えてみれば、どの一日だってそうだ。今を生きなくては、そう思った。

旅はいい。自転車の旅は特にいい。次はどこに行こうかな、僕はもうそんな事を考え始めている。

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Tokyo→Kyoto 東海道 ride 2025

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