AIDS/LifeCycle 2022

AIDS/LifeCycleという自転車イベントがある。サンフランシスコ・エイズ財団と、ロサンジェルスLGBTQセンターが共催して20数年になるイベントだ。何千人ものライダーが集まり、サンフランシスコからロサンジェルスまで約860kmを自転車で一週間掛けて走破する。友人Tylerが何年か前にこのイベントに参加して、その時の様子をブログに残している。これに惹き込まれたのが、僕にとってのAIDS/LifeCycleとの出会いだった。860km!途方もない旅だ。完遂の暁にはどれほどの達成感を得られるだろうか、と思った。しかし、自分には手の届かない挑戦のように思えた。2021年の事である。ロードバイクを買って半年くらいだっただろうか。

ロサンジェルスに行くにせよ行かないにせよ、僕はその後どんどん自転車にハマった2022年1月には一月で1400kmという記録を達成した。かつては手が届かなかったはずの挑戦が、現実味を帯びて感じられるようになってきた。渋る嫁さんをくどき落とし、このイベントに参加する事にした。

参加を決めるに当たって最後の障壁は、AIDSとは無関係な僕がこのイベントに参加する事が敬意を欠くのではないかという事だった。僕にとっては、AIDSは数ある社会問題の一つに過ぎない。このイベントに参加したいのは、純粋にこの超長距離ライドに挑戦したいからだ。Tylerに相談し、僕の動機は如何にせよ、ファンドレイジングの成果は彼らに寄与するものだから、それでいいのだと思うことにした。

この時点では、イベントはまだ4ヶ月も先の事だったので、これを目標に長距離ライドのトレーニングをした。毎週少しずつ長い距離を走る。長距離を走れるペースを掴む。脚力を付けるために山登りの練習をする。どのくらいの感覚で食べ物を補給しないといけないのか。脱水状態になると体はどうなるのか。少しずつ学んだ。100マイル(160km)の「センチュリー・ライド」にも挑戦した。二日連続で長距離ライドもした。

こうして僕は、少しずつ、自分の能力に自信を付けていった。僕はロサンジェルスまで辿り着けるはずだ。サイクリングというのは多分に精神的な競技だと思っている。それまで乗り越えた試練を糧に、新しい試練に立ち向かう、そういう取り組みだと思っている。

イベントの前日、Google Earthで7日分のコースをfly byした。俯瞰図で見るカリフォルニアの大地、山を越え、海沿いを走り、街を走り抜けるそのルートを見て、僕はとても興奮した。遂にこのイベントが始まるのである。荷造りも済んだ。自転車もチューンナップした。チェーンとブレーキパッドを交換し、タイヤも自分で交換した。15年のスタートアップ生活で、性格が楽天的になったのかもしれない。このライドを完遂してゴールラインをくぐる以外の未来がイメージできなかった。これならいける。

家族がゴールラインで僕を出迎えてくれるというのも嬉しかった。僕のこの挑戦が娘にとって何か教えることがあるとすれば、これを成すと決意して努力をすれば、人は驚くほどの事が達成できるのだということではないか。運動なんてからきし駄目だった僕が、ロサンジェルスまで自転車で行けるなんて。彼女はまだ若くて、人生で何を為したいのかまるで分からないでいる。今僕が父親として伝えたいのは、こういう事のように思えた。

出発地点のCow Palaceに向かい、自転車を降ろし、COVIDのテストを受け、無事陰性証明をゲットし、明日の出発へ向けての準備は全て整った。

一日目

朝4時に起き、入浴し、ライダーの正装に着替え、Cow Palaceに向かうバスに列に並んだ。明け方はまだ寒く、バスが遅れたので、列で待つ何百人のライダー達はみんな震えながら過ごした。

Cow Palaceではオープニング・セレモニーがあった。中でも印象深かったのは、厳粛な雰囲気の中で、乗り手のいない古めかしいロードバイクが一台人々に担がれて静静と入場してきた事だ。アナウンサーは、これはAIDSの犠牲になってこの日を一緒に迎えることの出来なかったライダー達の象徴だという。確かに、乗り手のいないバイクには、ここにいるはずなのにいない乗り手の不在が強く感じられた。アナウンサーはこれを粛々と説明しながら、しかし、ところどころ声が詰まり、感情が湧き上がっているのが伝わってきた。僕の気持ちは大分揺さぶられていたが、これが最後のひと押しになった。涙腺が緩む。このコミュニティの人々は、多くの知り合いをAIDSに亡くし、それは今も続いている。それだけではなく、AIDSは初期には差別や迫害を呼んだ病気だった。こうした苦しみを強く感じた開会式だった。

出走は、今まで経験した自転車イベントのどれとも比較できない特別なイベントだった。2000人のライダーが、自転車置き場から狭い入り口を通って一斉に道路に出ていく。遂に僕の番になった。歓喜がこみ上げるのを抑えることができない。沿道の人、人、人。何キロか走っても、まだ沿道に応援の人達が出ている。霧雨が降っていたが、爽快な気持ちだった。開会式の時の案内では、降水量は2mm程度とか。そんなのは雨のうちに入らない。

しかし、国道1号線を海岸沿いに南下する頃には、、霧雨は本格的な雨になった。僕は濡れネズミで、とても無残な気持ちになった。車輪が跳ね上げる水が靴の中をびしょ濡れにし、ペダルを踏むたびに濡れた靴下が潰れるグチャッとした気持ち悪い感触がある。ルートのこの部分は、しかも向かい風だった。正面から雨が吹き込み、スピードが出ていると顔が痛いくらいだ。遂に、カメラまで壊れた。水が入ってはいけないところに水が入ってしまったのに違いない。電源が入らない。これには心底ガッカリした。この旅を写真に収めようと楽しみにしていたのに。途中にセットアップされた休憩地点に入るも、寒くて体が震えてしまい、ちっとも休むことが出来ない。しょうがないので、疲れた体に鞭打ってそのまま次へと進む。本日一番の正念場だった。

幸い、昼食の時間頃までには雨が上がった。カメラも直り、海からの霧と雲とで、景色も美しくなった。写真を撮りながら進む。このルートは前に走ったことがあるのも僕の心を支えた。道が登り降りするたびに、他のライダーを追い抜かす事が出来たのも自信に繋がった。僕は体重が軽いからか、他のライダーと比べると登りが比較的得意である。その分、空気抵抗は大きいので降りは不得意なのだが。

Santa Cruzに着いた時点では、上位10%位になっていた。

キャンプ生活

AIDS/LifeCycleは、毎日毎日、行く先々で、テント村を設営する。ライダー二人が一つのテントに入る。シャワー室を造り付けたトレイラーが何台も現れ、それに給水して排水を回収するタンク車もひっきりなしに出入りする。食事はケータリングされ、メディカル・ステーションが設置され、ポータブル・トイレが無数に置かれ、臨時のバイク工房まで開設される。こういう設備が、毎晩、野球場数個分の敷地に整然と設営され、解体され、次のキャンプ地へ向かうのである。これを全部ボランティアベースでやっているのだから舌を巻かざるを得ない。兵站の行き届きぶりに僕は感動した。

この日はテント村を散歩して様子を把握してから、テント村を出てそばのクラフト・ビール醸造所をぶらっと訪れ、一日の運動の余韻と心地よい疲労感を楽しんだ。一日目は雨の中を130km。辛い時もあったが、終わってみれば楽しい一日だった。

二日目

テント・メイトのTylerの提案で、4:15amに起きて支度をし、道がオープンする6:20am直後に走り始めた。

早朝のSanta Cruzは霧が掛かり、幻想的な景色になった。このまま走っていくと、アリスの不思議の国にでも迷い込みそうなほどだ。自転車に乗った地元の通勤者と並走する機会があった。これからロサンジェルスに向かうんだと説明すると、彼女は口笛を吹いてとても愉快そうにしてくれた。こちらまで嬉しい気持ちになった。

市街地を抜けると、景色は一変して、なだらかな丘陵地帯に農地が延々と続くようになった。イチゴの巨大な畑の中を突っ切る道を走っていく。イチゴの香りに囲まれながら。アーティチョークやレタスなどを育てている畑もある。農作業の人も、サイクリストと同じ様に朝が早い。太陽と炎天を嫌うからだ。大きなハーベスターが畑に出ていて、農夫がその周りに群がって地面からキャベツを収穫してはハーベスターに放り込んでいる。陽気なアップテンポのメキシコ音楽が流れ、作業のスピードにリズムを与えている。そういう色々な景色に目を奪われる。

50kmほどの地点に、小さな地元のマーケットがある。毎年開催されるこのイベントの事を知っていて、ライダー向けにアーティチョークとパイを即売していた。アーティチョークをつけるソースに何が入っているのか分からないが、異常に美味しい。あまりに美味しかったので、パイも食べた。クランベリーの身がたっぷりの贅沢な素朴なパイであった。こういう寄り道をしながら、この旅はレースじゃないんだという事を思い出す。

国道1号線を離れ、スタインベックで有名なSalinasに入っていく。そこから更に南下してKing Cityへ。今日はこの旅で一番長い175kmの長距離ライドだ。これは、今までの僕の最高記録よりちょっと長い。175kmは行けると分かってはいたが、ゆっくり、力を節約しながら行くのが大事だと思っていた。幸いな事に、旅のこの部分は強い追い風に恵まれた。平地でちょっと力を入れて漕いでいるだけで40-50km/hに達して、それでなお風をほとんど感じることがない。舗装は悲惨だったので振動は酷く、手は疲れたが、追い風のお陰で翼の生えたような速度で飛ばした。途中何人かのサイクリストと一団を形成し、彼らを引っ張ることも出来た。

キャンプ地に辿り着いた時は、まだまだ行けるような気がしていた。とても快調だ。

三日目

三日目のこの日は、短く僅か105kmの行程。105kmが「僅か」と言えてしまうところに自分の成長を感じる。ただし、20km地点には比較的大きな登り、通称「大腿筋バスター」がある。坂の登りは比較的緩やかで、ここで200m位登り、最後の厳しいところが勾配8.5%で140m登る。今の僕には全然問題ない感じの数字だ。が、ここから先も長いので、無理にはしゃがず、ゆっくり遅いギヤで登っていく。

この山の反対側を下り、午前の田舎道を進むにつれて、右足膝下の外側が、引っ張る時に鋭い痛みをもたらすようになった。これには暗澹たる気持ちになった。まだ三日目でこれから先は長いのに!昨日追い風に気持ちが大きくなってスピードを出しすぎたのがよくなかったのだろうか。ゆっくり着実にゆけばよかった。

昼食は、地元の小学校の敷地内だった。ランチの売上は小学校の運営に寄付される仕組みだ。僕も参加して、木陰で暖かいハンバーガーにありつくことができた。気力が戻ってくる。足の痛みは遠のいたり戻ってきたりするので、遠のいているタイミングで少し力を入れて漕ぎ、距離を稼いだ。

道はやがて陸軍基地の中を横切っていく。陸軍基地というのは、要するに広大な無人の荒野が続く場所という事だ。舗装は依然として悲惨で、手の間隔がなくなってくる。こういう、変化がないところをずっと進むのは苦手だ。どれだけ走っても進んでいる気がしない。足も痛い。気持ちが沈んでいく。

基地の中程、一箇所だけ、短いけどとても急な登りがあった。今までの経験から、登坂では前もって低いギヤに切り替えておき、車輪にペダルを漕ぐ力が伝わる低い速度で進入し、そのまま一定の速度と力で登りきるのがベストだと思っている。力を入れて漕いでいる時にギヤを切り替えるのはトラブルの元だし、低い速度でトラブルがあると回復の余地がほとんどなくて危険だからだ。僕が登坂に向けて速度を下げてギヤを切り替えていたら、後ろのライダーが僕を追い抜いていった。彼は別な計画をしていた。平地で全力で漕いでスピードを出し、そのままの勢いを借りて坂を登り切る。残念な事に、彼は坂の距離と斜度を軽視していて、登り始めるとみるみるスピードが落ち、ギヤの切り替えも間に合わず、危険なほど低いスピードになった。彼はまだ僕の左側の「追い抜き車線」にいて、僕は進路が塞がれている状態になった。強引に彼の更に左側に出て事なきを得たが、あれはヒヤッとした瞬間だった。事故にならなくてよかった。

San Miguelを過ぎ、最後20km位の道のりはこの日一番の美しさだった。うねる丘陵地帯を道路が右に左に曲がりながら進んでいく。景色の変化が気持ちを飽きさせない。この地域ではワイン用の葡萄を育てており、随所にワイナリーがあって美しい建物が立っている。時折、大きな樹が沿道から道に大きな影を落としている。日は高く、影は明瞭で、そんな中を僕は風を切って進んでいく。道の脇の家畜達。写真を撮るのに何度も止まった。

そうしているうちに、僕はついにPaso Roblesに到着した。この105kmは思ったより大変だったが、無事に終えることが出来た。

この3日のうち初めてTylerと同じような時間に到着したので、遂にテントを設営する栄誉を得た。シャワーを浴び、またテント村を出て近所のクラフト・ビール醸造所に行って、冷房の効いた室内でビールを飲み、写真を整理する。そんな風に優雅な時間を過ごしていたら、カップルが入ってきた。このイベントの参加者はリストバンドを付けているので、すぐにそれと分かる。僕らは互いを認識して話し始めた。

蓋を開けてみると、二人のうちライダーは一人だけだった。もう一人は車を運転し、ライダーをサポートするのだという。こうすれば、毎晩テントではなくてホテルで寝られるし、食事だってレストランで取ることができるというわけだ。なるほどこれは楽だ。そして、僕はこの人の、パートナーに対する献身に感銘を受けた。彼は一週間の間、車を運転し、時間をつぶし、パートナーがこの旅をするのを支援しているのだ。なんという愛。ライダーの方は非常におしゃべり好きで、だからこの会話はとても楽しかった。写真も好きだし、日本も好きだし、サイクリングも好きだというのだから、話題は尽きない。

バーを後にしてテント村に戻ると、まだライダーが続々とテント村に到着していた。午後の太陽はとても高く、日なたにいると日差しで焼けるような暑さだ。ここ何日かサイクリングしていて、この集団の中では自分が比較的乗れる方だという事は分かっていた。「大腿筋バスター」で散々事前に言われていたが、そんなに大したことはなかった。自分の力がとても誇らしい。

それと同時に、僕は恥ずかしい思いも感じた。多くのライダー達は、真夏の炎天下、僕より更に何時間も掛けてこの道のりを苦しみながら進んでいるのだ。より大きな献身と犠牲。また、ここまでの道のり、信号待ちなどで、何度か車の運転手達にライダーが自分たちのやっている事を説明するのも目にした。誰もが必ず、(1)このイベントはエイズと闘う慈善事業であること、(2)我々はなんと20億円もの寄付金を集めたこと、そして(3)サンフランシスコからロサンジェルスに向かっていること、を必ずこの順番で説明していた。その話しぶり、口調から、エイズと闘うという目的の崇高さに心底共感しているのは明らかだった。ライドが楽しいからとかそういう動機はもっとずっと下の方にあるようだった。僕は自分の動機と献身が本当に下らないものであるように感じ、自分を恥じた。同時に、周りの人々が為そうとしている事により大きな敬意を抱いた。

四日目

四日目は145km。結構な距離である。このぐらいの距離はやった事はあるが、3日続けて100km超を乗り続けた後でこんな長距離には挑戦したことがない。

朝起きた時点で、体の疲れを感じた。テントの下の地面が凸凹していて眠りが浅かったのも残念だった。それでも、自分に鞭打って4:15amに起き、粛々と準備をして6時には開門を待つ列に並んだ。

開門を待つ間、隣のライダーと言葉をかわした。彼は60代のおじさんで、このイベントにはもう10回以上参加している大ベテランだ。これから先何年続けられるかは分からないが、と前置きし、自分が望むのは、遂にAIDSの治療薬が開発され、それを祝う最後のAIDS/LifeCycleが盛大に開催され、それでイベントが終わりになったら素晴らしいと思っている、と話してくれた。僕はそんな未来を想像し、心を強く打たれた。

6:30amには開門し、僕らは早朝のPaso Roblesに躍り出た。僕は最初の20人位には入っていたはずだ。足の調子もいい。手信号や掛け声を掛けながら進んでいく。気持ちがいい。しかし、そんな気分も長くは続かず、5kmをすぎると早くも疼痛が戻ってきた。道はこれから登り坂。目眩がするような気持ちになった。今日はこれから140kmも進まないといけないのに。先の事を考えるのは止めて、今現在に集中する。一歩ずつペダルを漕ぐ。

登り坂のてっぺんが、San FranciscoとLos Angelesの中間地点だ。道はそこから太平洋に向かってゆっくりと長く下っていく。漕がなくてより下り坂では痛みの事はしばらく忘れる事が出来、太平洋を望む絶景に目を奪われた。木の緑色、枯れた芝の金色、そして海と空の青色。カリフォルニアの色である。

道を下りきるとそこは再び国道1号線で、海岸沿いを南下していく。国道1号は交通量も多いので舗装はいいのだが、スピードを出せる道にありがちな、急カーブのない非常に単調な道路である。これが自転車にはとても精神的に辛い。この日一日で、一番辛い地点だった。

お昼ご飯は幸いにも日陰で、ここでゆっくりと時間を過ごしてエネルギーを回復する。ここから追い風になったも幸いだった。折れていた翼に生気がみなぎっていく。快調に飛ばし、気がついたらPismo Beachに向かって下り坂を走っていた。急に眺望が開ける。ここは途端に南カリフォルニアの空気が満ち溢れた街だった。眩しい陽光さえも好ましく感じられる。海沿いで気温もちょっと下がった。人々は楽しそうに食事をしたりそぞろ歩きをしている。寄り道して写真を撮ったり、休憩場でちゃんと休んだりしながら先へ進む。

足の痛みは、いつのまにか全身の疲労感に置き換わっていた。普段なら坂のうちに入らない1-2%の勾配でさえ、今の足には絶壁のように感じられる。一つづつ、一番低いギヤで、ゆっくり登る。沿道の応援が力を呼ぶ。そんなこんなしているうちに、Santa Mariaのキャンプ地に滑り込んだ。

今日は本当によく頑張った。とても誇らしい気持ちだ。

予期せぬ出来事

Santa Mariaに着いてシャワーを浴びていたら、少し咳が出るのに気付いた。少し眠って目を覚ましたら、熱が出ているような気がする。念の為にと思い、COVIDのテストを受ける。

なんと、結果は陽性だった。残念ながらライドはここで終わりです、とスタッフに告げられる。ショックで何を感じたらよいのか分からず、頭が空っぽになる。この旅を完遂するはずだったのに。僕には出来たはずだ。それだけの力はあったはずだ。それなのに、こんな唐突に途中退場になってしまうなんて。

申し訳ない気持ちもした。テント・メイトのTyler。彼は僕とずっと同じテントで過ごしている。彼を危険に晒してしまった。昨日ビールを飲みながら話をしたカップル。彼らも危険に晒してしまった。どこで僕はウィルスを貰ったのか全然思い当たらないが、連日体を酷使しているから免疫は弱っていただろう。今日、あるいは昨日もこんなに疲れていたのは、もう発症していたからではないのか。

だが、考える余裕はあまりなかった。当座やる事が無数に出来たからだ。ホテルを探さなくてはならない。小さな町でそれほどホテルがないのに加えて、このイベントのせいでほとんどのホテルが一杯である。探してみたら一軒、一部屋しか空いていなかった。喫煙室だが文句を言っている場合ではない。速攻でポチる。荷物をまとめて運び出す。周りの人に知らせる。一人ジーパン姿で荷物を引っ張りテント村を後にするのはとても寂しい気持ちがした。他のみんなはまだバイクショーツのまま、テントを設営したり楽しそうに話し込んだりしている。彼らにとってこのお祭り騒ぎはまだまだ続くのに、僕の旅はここで終わりだ。何ということ。

週のはじめ頃、これだけの人が参加するのだから、事前にテストするとは言っても、COVIDの感染を完全に防ぐことは出来ないだろうと思ったのを思い出す。まさか僕が感染者になるなんて。幸い、Tylerのテストは陰性だった。他の人に伝染していませんように。テストをしたのは正しい判断だった。結果は自分にとってはとても残念だったけれども。正しい事が出来たのは誇りに思ってよいはずだ。荷物をホテルまで届けてくれたりと、スタッフもとても親切だった。

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これを書いている今、正直まだ起こったことが消化できていない。四日間の体験はそれほど濃密で、そして幕切れはあまりにあっけなかった。

しかし、これだけは言える。このままでは終われない。来年、再びこのイベントに参加して、Los Angelesまで全行程を走破しなくてはならない。この挑戦に打ち勝たなくてはいけない、と思った。

だから、早くも来年のイベントに申し込んだ。僕の中でAIDSの重みも前よりずっと大きくなった。だから、前よりも気後れする事なしに言える。この長い投稿があなたの気持ちを少しでも揺り動かしたのなら、AIDSと闘うための寄付をしてほしい。https://giving.aidslifecycle.org/participant/Kohsuke-Kawaguchi

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